今日は『それいけアンパンマン』の放送が開始された日。
というわけで、今回はあんパンの歴史について紐解いてみたいと思います。
あんパンは、誕生した年がはっきりしています。
1874年(明治7年)に、茨城県出身の元士族・木村安兵衛という人物により考案されました。
安兵衛の人生は波乱万丈です。
農家の家に生まれた安兵衛は、木村家に婿養子として入ります。
しかし度重なる水害に嫌気がさし、江戸に出て、津藩の仕官市内見廻役御蔵番などを務めます。
時代は明治に入り、東京府で太政官出仕授産所(現在の職業訓練所)で働いていた伯父を頼り、そこの事務職におさまります。
この授産所で、運命の出会いを果たします。
その相手とは、長崎でオランダ人宅にてコックを務めた経験を持つ梅吉でした。
1869年(明治2年)、安兵衛は英文堂というお店を創業します。
しかしこの年、店が火事で焼けてしまいます。
そうして再建された店が、現在にも続く木村屋でした。
火事で焼け残ったのは、石でできた石窯だけでしたが、息子・英三郎や従業員たちの協力もあり、営業を再開。
1872年(明治5年)には、海軍兵学校の予備校的な存在であった攻玉社の御用達となります。
この年の9月に、新橋・横浜間の鉄道が開通すると、駅構内に販売店を出店、店は大いに繁盛します。
しかし再びの火災が木村屋をおそいます。
この再建の際に、小倉餡をパン生地で包んだパンを開発します。
ちなみに、当時はイースト菌が希少だったことから、安兵衛は酒種を用いてパン生地を発酵させていました。
1874年(明治7年)、安兵衛57歳の時に、あんパンの販売を開始。
翌1875年(明治8年)の時に、縁のあった幕臣・山岡鉄舟の仲介で、明治天皇へあんパンが献上されます。
あんパンを召し上がった明治天皇は、「引き続き納めるように」とおっしゃったと伝えられています。
また、こちらも山岡鉄舟のつてで、静岡県で隠居生活をしていた徳川慶喜にも、あんパンを献上していたそうです。
1889年(明治22年)7月26日、安兵衛は72歳で生涯を閉じました。
こうして安兵衛の人生を紐解いてみると、コンビニで買ったあんパンの味も、いつもと違って感じられるのではないでしょうか。
皆さまも、よきあんパンライフを!
ではまた!
今日は、進化論で有名なダーウィンが、5年間にも及ぶビーグル号の航海から帰国した日とのこと。
5年間もの航海。
私には無理です。
ダーウィン、すごいですね。
というわけで、今回はチャールズ・ダーウィンについてまとめたいと思います。
医師である父を持つダーウィンは、6人兄弟の5番目の子として生まれました。
しかし8歳の時に母が亡くなり、幼い姉たちを母親代わりとして育ちます。
幼い頃から収集癖があったダーウィンは、貝殻や鉱物を集めて楽しんでいましたが、父が園芸を趣味としていたので、小さな庭を与えられていたそうです。
そんな小さい頃から、科学者としての芽が育まれていたわけですね。
16歳の時に親元を離れ、エディンバラ大学で医学と地学を学びます。
しかし麻酔のない当時の外科手術にたいして抵抗があり、また自然に興味を持っていたことから、18歳の時に退学します。
ちなみに2学年目には、当時論争状態にあった進化思想について知ることになります。
父により18歳の時に、牧師となるべくケンブリッジ大学に入学させられます。
牧師になれば自然と触れ合う時間がよりたくさん持てると思ったダーウィンは、喜んでこれを受け入れたそうです。
この頃、聖職者であり博物学者であるヘンズローと知り合い友人・弟子となっています。
ヘンズローは後のダーウィンの活動に最も影響を与えた人物として知られています。
二人はよよく、ヘンズローが学内に開いた庭をそろって散歩していたそうです。
当時のダーウィンは、「神がすべての生物を完璧にデザインした」というデザイン論を信じていました。
また、ジョン・ハーシェルや、アレクサンダー・フンボルトに刺激を受け、同級生たちと地質研究の旅にでる計画を立てています。
この頃、ビーグル号による探求の旅の準備を進めています。
22歳の時にケンブリッジ大学を卒業。
後の回想の中で、ダーウィンは「大学生活で得たものは何もなかった」と述べています。
そんなわけはないでしょうに、と思ったりします。
ケンブリッジ大学を卒業した22歳の年に、海軍の測量船ビーグル号に乗船することが決まりました。
ビーグル号の航海は5年間に及ぶものでしたが、この5年間のあいだに、ダーウィンは、後の進化論につながる発見をしています。
航海の途中の詳しいあれこれについてはwikipediaをお読みください。
帰国するとヘンズローのはたらきにより一躍有名人となっていたダーウィンは、航海中に収集したあれこれをコレクションするために、ケンブリッジに移ります。
28歳の時には、仕事がしやすいロンドンに移り住み、科学者の輪に加わっています。
その後、ダーウィンは航海記録やコレクションをまとめる長い研究生活に入ります。
このころ、根を詰めすぎたのか、体調不良に苦しんでいます。
29歳の年に、地質学会の事務局長に推薦され、これを受けています。
この頃、研究のしすぎからか、更なる体調不良に苦しんでいます。
原因は分かっていません。
30歳の年に、兄の結婚に影響を受けてプロポーズし、結婚しています。
この時の走り書きに、結婚した際のメリットとして、「永遠の伴侶、年をとってからの友人……いずれにせよ犬よりまし」と書き、デメリットとして、「本のためのお金が減る、おそろしいほどの時間の無駄」と残しています。
若き日のダーウィンの切実な悩みだったんでしょうね。
今の時代の偉人も、かつては一人の人間だったことがうかがい知れて、クスッときますね。
この頃には、ダーウィンの信仰心は消えており、妻への手紙の中でもそのことが記されています。
46歳の時に、王立協会からロイヤル・メダルを受賞し、生物学者としての名声を確立しています。
晩年は、年をとっても研究を続けていたことが記録に残されています。
73歳の年に亡くなっています。
ちなみに、ダーウィンの言葉として「最も強い者が⽣き残るのではなく最も賢い者が⽣き延びるのでもない。 唯⼀⽣き残ることが出来るのは変化できる者である。」という言葉が紹介されることがありますが、これはダーウィンの言葉ではなく、経営学者メギンソンの解釈が流布したものらしいです。
以上、今回はダーウィンについてのまとめでした。
いやはや、偉大な人物ですね。
そしてとても幸運な人物だと思います。
なにせ裕福な家庭に生まれ、病気もせずに育ち、大学で充実した生活を送り、5年にも及ぶ船旅で生き残り、帰国してからも科学者として名を馳せつつ研究にいそしみ、結婚して家庭を持ち晩年は家族に見守られながら(おそらく)息を引き取ったのですから。
そんな彼にも様々な悩みがあったのでしょうが、それは歴史の表舞台にはあがってきませんね。
一体彼はどのような人間だったのでしょうか。
彼の口癖は何で、何を好んで食べて、どんな葛藤を抱いていたのでしょうか。
wikipediaには書かれていないそんな部分を想像してみるのも面白いかもしれません。
それではみなさまも、よき進化ライフを!
ではまた!
パトカーの警光灯の光り方に新しいパターンが登場するそうです。
ひとめで緊急時とそうでない場合との判別がつきやすくするのが狙いだそうです。
まだまだ珍しいので見かけたらラッキーですね。
みなさまもよきパトカーライフを!
ではまた!
ニュースで、地域の新米警察官のお披露目式をやっていたことから、今回は警察についてまとめてみました。
皆さまは、「警察庁」と「警視庁」の違いってご存じでしょうか。
『名探偵コナン』で登場はするものの、私はまったく知りませんでした。
調べたところ、
警視庁は、東京都の都道府県警察となります。
主な仕事は、東京都の安全管理や交通整理です。
警視庁は、東京都知事所轄の東京都公安委員会の管理下にあります。
一方の警察庁は、内閣府の外局である国家公安委員会の管理下にある特別組織です。
主な仕事は、全国の警察の監督・指導や、全国的な犯罪の捜査などです。
名前が似通っているのに、組織としては立ち位置が全く違うんですね。
どちらにせよ国民の生命と財産を守る大事なお仕事なわけですが、一個人としては、警察の方々のお世話になることなく日々を平和に過ごしていけたらと思います。
皆さまも、よき平和ライフを!
ではまた!
フィクションのなかの警察(1,980円)
前回のブログでは、顕生代の古生代と中生代をまとめたのでした。
今回は残りの一つ、新生代をまとめたいと思います。
参照とするのは、いつもお世話になっているwikipediaです。
さて、新生代は、古第三紀・新第三紀・第四紀の三つに分かれます。
それらが更に以下のように枝分かれしています。
古第三紀は、以下の三つに分けられます。
次の新第三紀は、以下の二つに分けられます。
最後の第四紀は、以下の二つに分けられます。
お疲れ様でした。
4回に分けてまとめてきた「地質年代を紐解いてゆく」シリーズも、現生人類の出現に至ったところでおしまいとなります。
地球上に誕生してまだたった1万年に過ぎない人類が、こうして科学の力で一個人ですら地球の歴史をまとめられる程にまで進化していること、そしてその中の一人としてこうしてその知識に触れている事実に、驚きと感動を覚えます。
しかし人類の科学は過去だけを研究するものではなく、いつの時代も未来を探求するものでもありました。
というわけで、また近いうちに、今度は未来の技術や宇宙について、まとめてみたいと思います。
それでは皆様も、よき科学ライフを!
ではまた!